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BIRTH

BIRTH

澁谷征司写真集
285mm(W)×320mm(H)|132頁|上製(クロス装)
アートディレクション|近藤一弥

5,250 円 (本体5,000 円 +税)

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帯文より

素晴らしい写真だ。この本の一部になれたことを誇りに思う。

―ロバート・ワイアット[ミュージシャン]

『BIRTH』について

知らない町の話を聞くのが好きな子供だった。
どこか遠くに行きたかったわけではなく、ただ風景を想像するだけでよかったのだろう。
それは誰のものでもなく、同時に誰もが持っている物語のような風景。

いつの頃からか僕のささやかな世界地図は、頼りないミツバチのピンで少しずつ埋まっていくようになる。

顔のない海。透明な音楽を包む霧。神様を迎えた池。深い森を抜けてゆく小川。ロックンロールを運ぶ黒い運河。
年代順に並べられた全ての場所は水で繋がれ、最期に僕は哀しく優しい”声”に遭遇する。

無が有になる時の少し熱を帯びた感触は僕の指先や感受性をつらぬき、
永遠と一瞬のなか僕を曇りなき”まなこ”にしてくれる。
そこに写し出されるのは遥か自分の手を離れた神々しくも親密な風景だ。

僕が辿ってきた絶え間ない光と影の交換が、すべての水を集める大きな河のような一つの流れになり、
何か優しさのような物に吸い込まれてゆく事を、僕はこれからも見届けてゆく気がする。

澁谷征司

「音楽的な何か」を追って

  ドイツのジャズレーベル「ECM」の取材のためにドイツに向かうにあたって、編集担当の僕が、写真家とともに考えていたことは「音を撮る」ということだった。もっと正確に言うと、「ECM的な音を撮る」だった。ECMはジャズの即興演奏とクラシックの審美性を併せ持った高踏的な音楽をその特徴としている。清澄で研ぎ澄まされたその響きを、ファンは「クリスタルサウンド」と呼ぶ。そこで、僕らは南ドイツのいかにもロマンティックな森や湖をめぐり、その「音のイメージ」を追った。しかし、途中で僕らは間違った風景を見ていたことに気がついた。「ECM的な音」はそんなところにはなかった。むしろアウトバーンの脇の、電線が横切り、ごみが雑然と捨てられているような、すなわちサバービアのいかにも散文的な風景のなかにこそ、僕らの求めていたイメージがあることに気がついたのだ。人為と自然とが無作為に交錯した、名付けることさえ無駄にも思える、いかにも「詩的でない」光景にレンズを向けながら、写真家が「いい感じですね」と呟いたことを覚えている。
  こうした経緯を経て写真家が捉えたイメージは、後にその意図が図星であったことが判明する。写真家の撮影した「音のイメージ」は「ECM」サウンドの核心を握る社長のマンフレッド・アイヒャー氏によって、とある本のなかで、以下のように説明される。

ECMを訪れた日本のフォトグラファーは、工業地帯の名もない場所を写し出した。人々はそこへ入り、出て、また次の名もない場所へと向かってゆく。詩的で、不思議な親近感を抱かせる写真である。 (中略)この場所には自由がある。この場所のプレイスレスネス(場所性のなさ)には、音楽的な何かがある。「私の場所」、エドモン・ジャベスはかつて言った、「それは、あらゆる"私の場所的なもの"の欠如である」。

  都市と田舎のはざまにあって、「通り過ぎるためのみに通り過ぎる」ような場所。「場所性」というものが欠如したこうした場所に、ECMの社長は「音楽的な何か」があるというのだ。僕は、今にして、この彼の言葉が、ECMの音楽のありようを表しながら、同時に、写真家の意図を的確に見抜いた言葉であることがよくわかる。本書「Birth」に収められた「奇妙で親密な」写真の題材となった場所は、一環したテーマ性に基づいて選ばれているわけではない。なぜなら、個々の場所は、メディアもテーマもまったく異なるアサインメントのために訪ね、撮影されたものだからだ。それでも、僕には、すべてのイメージに通低するものとして「音楽的な何か」を感じ取ることができる。オステンドの海岸、宇佐の神社、多度の杜、ECMのオフィス、オスロのスタジオ、アバディーンの森、グラスゴーやラウスという街に暮らす音楽家。どこの場所に赴いたとしても、写真家の目線は変わることがない。彼は、きっとそこに「音楽的な何か」を探そうとしている。
「音楽的な何か」とは何だろうかと考えて、僕はそれを、「響き」や「ヴァイブレーション」と呼んでみようかと思ったりする。あるいは「オーラ」や、さらにもう一歩オカルトに踏み込んで、その土地の「霊(スピリット)」のようなものかも知れないと考える。いずれにせよ、それは目に見ることはできなくて、曖昧で、どこか非科学的のように聞こえて、同時に物事の本質に関わっていると思えるような「何か」だ。写真家は、そうしたものにカメラを通して「耳を澄ませ」、そしてそこに「音楽的な何か」を見出すことによって、あらゆる場所を「場所性の欠如した場所」へと反転させてゆくのだ。
  ロバート・ワイアットが自宅で、トランペットを吹いている写真を見ていると、それが実在する場所の実在する人物の写真とは思えず、むしろ「精霊」を見ているような気にさせられるのはなぜだろうか。そこに漂う「音楽的な何か」の気配こそが、人や場所の実在性よりもはるかに確かなもののように思えてくるのは、何も僕がロバート・ワイアットのファンだから、というだけではないはずだ。そうしたことは、たとえばアバディーンの森に佇む樵たちの姿を見ても同様に感じることができる。
「音楽的な何か」がある場所には、「場所性の欠如がある」。そして、その「場所性の欠如」は、その場所や人が、どこか名付けえぬところで宙吊りとなったものであることを証拠だてるだろう。前述のアイヒャーの言葉を、逆からたどっていくような道筋を、僕はこの「Birth」に収録された写真のなかに見出していく。
  異界の入り口にある神社や、手つかずの自然のように見えて実はすべて植樹林であるアバディーンの森が、実際のところ、「異界と現世」あるいは「自然と人為」のはざまにある、「どちらでもない場所」であることは後付けの情報として知っておくだけでいいだろう。そこに「音楽的な何か」がある限り、世界中のあらゆる場所は、何かと何かのはざまにあって「無名化」されうるものであることを、これらの写真は僕らに語りかけているのではないだろうか。
  聞けば、写真家が、本書のタイトル候補として「Bible」という案を挙げていたというのは示唆的ではないだろうか。天国と地獄との間で、宙吊りにされた「場所性の欠如した場所」として「この世界」はある、といったことを写真家は考えたのかも知れない。いずれにせよ、写真家は、この写真集を、「声に出会う旅」と語っている。それは、本書の末尾に登場するロバート・ワイアットの存在を踏まえながら本書の構成を語ったものだが、実際はそれ以上の意味を持っている。結局のところ、本書のすべての作品が、「声」、すなわち「音楽的な何か」を追い求める旅の一部だったということなのだ。これらの写真のなかで、すべての場所は「音楽的な何か」を見出されることによって、絶えずその「場所性」を剥奪されていく。そして、そうした場所をのみ、写真家は「私の場所」とするのである。
「私の場所、それは、あらゆる『私の場所的なもの』の欠如である」
  渋谷征司にとっての写真は、きっと、「私の場所」を「生み出す(Birth)」ための儀式であり、それを可能たらしめる魔術なのである。

若林恵(編集者)

澁谷征司    SEIJI SHIBUYA|→ HP

  • 1975年、横浜生まれ
  • 95年より独学で写真を始める
  • 現在、東京在住