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SMAPの新曲(「弾丸ファイター」)を聴けばスクリッティ・ポリッティかカジャグーグーかと思い、芸大制作展を見れば、まるで3C=クッキ、キア、クレメンテのペインティングに出くわす。80年代がなんだか復活してきているのである。少し前までは、グループサウンズとフォーク、リヒター、タイマンス、スーパーフラットだったのに。「少し前」が通称「女の子写真」だとすれば、復活の80年代が花代である。
花代のCDに「80年代」を聴き取るのは易しい。それは細野晴臣の「SFX」、坂本龍一の「音楽図鑑」の時代であり、戸川純や越美晴といった歌姫の時代である。テクノサウンドの上を、澄んだ高い声が鋭く、甘く、気だるく囁く。ハイテク+芸者というように、サイバーパンクとアジアの大都市のイメージが重ねられ、アンドロイド少女の冷たいエロスと電脳空間のミスマッチが流行した。花代作品の中に反復される80年代、それはどのような時代であっただろうか。
パソコン(といっても日本語も表示できなかった機械)が市場に出始めたのが84年である。80年代とは我々の日常がアナログからデジタルへ不可逆的に、加速的に移行した時代であった。急激に流入しはじめた情報ノイズのなかに誰もが吸収=アブソープされてしまい、轟音の中の静寂において情報の流れをぼんやり眺めているような、不思議にアブソープティヴな意識の真空。高速で回転する物体が静止して見えるように、デジタルな世界は奇妙に時が止まったように思われ、その時の静止の中でただ一つ、人間の肉体だけがゆっくりと老いていく。グローバルネットワークへとやがて接続されていくデジタルな感官と、いまここで重力に耐えるほかないアナログな身体が乖離していく。懐かしいダムタイプのパフォーマンスはその典型的な表現であった。
さらに80年代には、70年代から始まっていたポストモダニズムの思潮がモダニズムを完全に過去の物にしてしまった。老いたモダニズムは時を止められ、右記のアブソープションと一体化する。そのとき花代は、モダニズムという一時代の黄昏を、上質なノスタルジーにおいて表現しつづける道を選んだ。女の子写真の先駆、芸能人、芸者、帰国子女・・・様々な「色」を身にまとい、まとわされてきた花代は、この装丁も凝った美しい写真集により、ただの写真作家としてスタート地点に立っている。
清水穣(写真批評)
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