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『ストレンジリ・ファミリアー』の被写体となっているのは、主に東欧の移動式の小さな見世物やサーカスの人々、運動選手やダンサーであるが、
これらの男女・子供たちが実際に人前でどのような行為を演じてみせるのかを写真から識別することはほぼ不可能だ。
空中ブランコか、それとも綱渡りか? 犬、鳥、馬、猿などの動物を使うか? 子供たちはサーカスの二代目、あるいは三代目か…?
写真の中に手掛かりとなる情報がわずかしかなく、それを見る私たちは反射的に不明な部分を自分で埋め、イメージの持つ物語に導かれるままに進んでゆく。その感覚は何一つ明白ではなく、何一つ当たり前ではない、幾通りもの解き方のある謎のようなダイアン・アーバスの作品を彷彿とさせる。
シェルビンの作品もまたアーバスの作品と同じように観る者の脳裏に焼きついて離れない。
シェルビンが被写体と共に、信頼関係とバランスによって高所に留まるアクロバットと同じ状態を引き起こしながら生み出した作品は、
ありのままではないが偽りのない、作為的だが真実だけを材料とした虚構の記録である。
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