【After 3・11】産經新聞に黒田光一が寄稿。

12月7日の産經新聞朝刊の「After 3・11」のコーナーに写真集『弾道学』の黒田光一さんが写真と文章を寄稿しました。

野暮のていたらくから

 夏の頃、写真について人前で話す機会の折、幾人かのやりとりの中で自分は「作品として成った写真が人に理解されそうになると、逃げたくなる」と話した。対してある人に「じゃあ、(そもそも)人になんて見せなければいいのに」と返された。無邪気だがこの人の言葉は至極真っ当であって、日常生活者の基本としてこれで十分いいのだと思う。

 また自分の写真は、人には重く暗く、しかめっ面に映るようなのだが、当人としては笑いも馬鹿(ばか)ばかしさも軽みも含み、というよりそんなもの勝手に混入していると思っている。多くの人にとって笑いや喜びや面白おかしいもの(悲しみや絶望も)というのは、あらかじめモデルが想定されているが、幻想としての大衆の視点に自らの眼玉も同化させて生活を営まなければ精神的に破綻してしまうので、やはり致し方ないのだ。多様な感情の存在など端(はな)から必要とされないまま、社会は足早に動いていく。

 ところで、理解する他者とは誰か。それは他人とは限らず己のことでもある。やはり自分にはその行為の見取り図を早々に展開できて"わかった"などと口にできるようなことをしたくないのだった。簡単に手に入る理解には疑念がつきまとう。そして社会が仕掛ける、理解を装った安い"手打ち"には抗(あらが)うべきだ。

 3・11以降のことを「津波、原発含め歴史的に見ても小さいこと」と言い切る声も直接聞いた。もちろんその真逆も。それぞれに感じる違和は、そのまま現在、この地点での自分の認識の程度を示す。

 世界の事象をほぼ取りこぼしながらあえて写真として規定してしまうことをおそれ、それでもまた形にしては言いよどみ、理解(自身への理解も)の訪れを信じないという、野暮(やぼ)のていたらくからしか動いていけないのだ。

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©Koichi Kuroda