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追記〜本文の前に〜 2011年3月16日

 私はこの原稿を、3月6日に姫野さんに届けた。その直後の3月11日に今回の大震災が起こった。

 言葉を失いつつ、言葉が溢れる。すでに始まっている長い闘いに向けて、伝えたい言葉がある。だから、以下の「『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』に寄せて」に追記したい。

 産まれることも死ぬことも産むことも、人智を越えた自然の営みだと思う。問題は、それを誰がコントロールするのか/されるのかということだ。死ぬこと自体が不幸なのではないと敢えて言いたい。どのように死ぬのかが問題なのだと思う。
 また、「健康である」ということは、とても社会的なことだと思う。すべての人間は、健康を含めた「安全と安心」を保障される権利と必要性を持っている。

 私は、災害も紛争も、「しわ寄せ」という構造がひとつの大きな問題だと思っている。情報が集中する地域からそうでない地域へ。大都会からそうでない地域へ。宗主国から植民地地域へ。「しわ寄せ」られている側の切実さに対して、「しわ寄せ」している側は常に無関心、または見当違いの同情を寄せるかである。

 同情ではなく同苦へ。

 今回、東日本大震災発生から5日目を迎えて、特に報道/ジャーナリズムについて多くの事を考えさせられている。「『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』に寄せて」の本文は、そのことと関連している。


* * * * *

ジョナサン・トーゴヴニク写真集
「ルワンダ ジェノサイドから生まれて」に寄せて



 過去に起こったあらゆるジェノサイド(集団虐殺)を想像してみる。

 人間が、かくも残虐/非道な行為を、与える側にも受ける側にもなり得るということ、また、人間がかくも淡々と強くなり得るということについて、私たちは出来るだけ若い時期に、出来れば両方を知っておくほうがいいと思う。
 残虐/非道な行為はもちろん与える側にも受ける側にもならないのがいいに決まっている。しかしそれから逃れられないとしたら?逃れられない構造があるとしたら?その構造を変えるための、あるいはその構造の中でさえ生き抜くための強さと智恵と行動は、何から生まれるのだろうか。

 無知と無関心、そして忘却は恥ずべきことだ。そして無知ゆえの無垢な純情さは、出来事の痕跡や証言に向き合うことを臆病にさせる。
 私がナチスのホロコーストについて知ったのは中学生の頃だ。崇高な正義感などからでは全くなく、当時の貴重な証言を記した「アンネの日記」や「夜と霧--ドイツ強制収容所の体験記録」(旧版・写真図版入りの方)といった書籍を私に示した大人が居たからだ。
 ナチスのホロコーストは大変に有名であったから、私は大人になってからもそれを覚えていて、第二次世界大戦に対するドイツと日本それぞれの市民の、そして自分自身の、現在の意識と行動について興味を維持することが出来ている。

 数ヶ月前、49歳にして私は久しぶりに自分の無知を大きく恥じた。私がルワンダの集団虐殺・集団暴行について初めて知ったのは、数年前に観たNHKテレビのドキュメント番組によってだった。その番組を観た時には「組織化された殺戮」と「生き残り、生き続けるということ」について、何らかの強い印象を受けた記憶がある。しかしここ数年間、私はその集団虐殺が起こったルワンダという国がどこにあり、それはどのくらいの規模で、そして何が原因で起こったのか、詳しく知ろうとはしなかった。その番組には情報が含まれていたのかもしれないが、数年経った今は忘れてしまっていた。

 そして2010年12月、私は京都造形芸術大学で開催された「時代の精神展」第一回としての「ジョナサン・トーゴヴニク写真展/ルワンダ ジェノサイドから生まれて」を見る機会に恵まれた。私は被写体となった女性達の証言内容を知ると同時に、写真家の動機と意思に興味を持った。それで、この展覧会と同写真家による写真集「ルワンダ ジェノサイドから生まれて」の企画者である竹内万里子さんの助言を得て、いくつかの資料を読んだり映像作品を見たりした。

 そこから知り得て一番愕然とした事は、100年前の植民地政策を始めとした欧米諸国の行為が、ルワンダを含むアフリカ諸国の今も続く苦しみの原因として大きな影響を及ぼしていること、特にルワンダにおける「民族の対立」を生んだのは主にベルギーの植民地政策によるものだったこと、そして今も続く長期・広域・大量に及ぶ紛争・虐殺・レイプ・貧困・難民問題に対して、国連や欧米社会の示す関心は、白人における同様の問題に比べて明らかに低い、いや、むしろ非道に見放している、ということであった。日本で生活する私は、その欧米社会が主に提供する情報によって世界を意識していたにすぎなかった。この私の無知は愚かであり残酷ですらある。

 ここで私は、「自分が今書いた言葉」の、薄情さと野蛮さに立ちすくみそうになる。私は安全な場所でのんきに自らの無知と怠惰を発表している。おめでたいことだ。
 しかし私は今、知らなかったことを知っている。それは、それらを知る前と後とでは、文字通り世界の見え方が変わるような事柄である。2冊の本といくつかの映画とインタビュー記録は、立ちすくんだ私が新たに踏み出す方向を示してくれた。

 「ルワンダ ジェノサイドから生まれて」の写真家ジョナサン・トーゴヴニクはインタビューの中で、ジェノサイドの際のレイプから子どもを産んだ女性たち対して「もし手立てがあるとしたら、自分の子どもたちの将来をどう考えますか?」と質問したと話す。すると彼女たちは「教育だ」と答えたというのだ。これは何を意味するのか?報復や金や権力が必要だと思う時もあるかもしれない。しかし彼女たちは全員が「教育だ」と言ったのだ。ひとりで生きる能力を身に付けるために。自分たち母親はそんなに生きられないでしょうからと言った、という。

 映画「ルワンダの涙」のプロデューサーであり、BBCジャーナリストでもあるデビッド・ベルトンはインタビューでこう言っている。「私にはルワンダの人々の代弁者にはなれない。私に語れるのは自分が経験したことだけだ。この映画は欧米人の立場から『私たちはこうやってあなたたちを見捨てたのです』という内容だ。これを見ることによって、ルワンダの人々のこの事件に対する見方が変わるかもしれない。」この映画はルワンダで撮影され、事件の当事者であるルワンダ人と一緒に製作された。それは当事者へのエンパワメントであり、その思想はほとんどドキュメンタリーのようであるが、しかし多くの人が見やすい劇場映画として仕上げるという意思に貫かれている。

 そして「ジェノサイドの丘」の著者、フィリップ・ゴーレイヴィッチ。この驚異的なルポルタージュは、どのように人はこの世界を想像するのか、その想像という闘いのプロセスを人に伝えることの可能性と責任の在処を、痛みを伴う希望とともに私に取り戻させてくれた。

* * * * *

 写真家ジョナサン・トーゴヴニクはインタビューの中で次のようにも言っている。「あらゆるフォトジャーナリストはアクティビスト(活動家)だと僕は思います。」私はこの意見に賛成だし、ジャーナリストとアーティストはこの点において似ているとも思う。そして、ジャーナリズムも写真や映画のような芸術表現も、どちらも受け手の反応があって初めて成立する。

 ルワンダに続くスーダン等々での紛争。そして、今夜もインターネットが報じるリビアでの無差別虐殺。その状況は、17年前に起きた事件を描いた映画「ルワンダの涙」や「ホテル・ルワンダ」が伝えるものと呆れるほど酷似している。現地からの声なき声と、欧米社会(日本もそれに含まれる)の対応の、絶望的なギャップという点で。
 しかし同時に、その「声なき声」を伝播させることが可能だということを、私たちはすでに知ってもいるのだ。

2011年3月
ブブ・ド・ラ・マドレーヌ

* * * * *

資料情報

「ジョナサン・トーゴヴニク氏のインタビュー」
http://www.mediastorm.com/publication/intended-consequences
(本文中の引用は、竹内万里子氏の翻訳による。)

「ルワンダの涙」2005年、イギリス・ドイツ合作、DVD

「ホテル・ルワンダ」2004年、南アフリカ・イギリス・イタリア合作、DVD

「ジェノサイドの丘」(上下2巻)
フィリップ・ゴーレイヴィッチ著、WAVE出版、各1600円+税
著者は「THE NEW YORKER」等のスタッフライター。 ruwanda_pop.jpg



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 この本へのコメントを半分ぐらい書き終わったところで東北関東大震災が起き、それに起因して福島原発の事故が起きた。しばらく仕事は手につかなかったが、やることは山ほどあった。膨大な量の情報を収集し、直感を研ぎ澄まし、脳をフル回転させながらそれらを選り分け、必要なものをリストアップし、淡々とスーツケースに詰め込む。最初の数日は交通機関が止まり、仕事をしない言い訳もできたが、すぐに東京は放射能の危険に怯えながらも通常の生活を送ることに決めた。わたしなんて、通常の生活に戻ろうと腹を決めたのはつい四、五日前のことなのに。そして再びコメントに取りかかったが、まるで別の人が書いたもののように思えるし、続く言葉が出てこない。そこで思い切って古いものはゴミ箱にドラッグし、新しい原稿を書くことにした。

 わたしはわたしの正しいと信じることに従って生きたい。現代社会において、他人に重大な危害を与える原因にならない限り、この自由は守られている。今回の原発事故に関しては、メディア、電力会社、学者、そして政府が正しいと思うことと自分のそれは、初めから違っていたが、わたしは自分の判断が間違えているとは思わなかった。他者と考え方の相違がある場合、両者がお互いの意見を尊重し、認め合うのが社会の流儀だと思っていた。けれども実際は違っている。世の中の主流あるいは権力を司る集団と対立した考えを持つ自分を信じることには、思った以上の困難が伴い、わたしは自分の考えを様々な形で否定された気がしたし、自己嫌悪や不安に陥らざるを得なかった。

  一夜にして、世界がすっかり変わってしまうなんていうことはないと思っていた。地震の前、わたしはルワンダの女性たちと自分の共通点を、女性であることに集約して文章を書いていた。たとえ彼女たちの壮絶な経験を理解することができなくても、同じ女性という立場から共感することは可能だと考えたのだ。例えば、彼女たちの何人かが語っていたように「もし子供が父親の性質を受け継いでしまったら」という不安は、離婚したわたしのものでもある、なんていうことを書いていた。そうしながら心のどこかでは、彼女たちに起きたようなことは自分の身に起きなかったし、これからも決して起きないと「知っていた」。死や、決定的な傷を負うような経験を、先進国の日本に生まれ育ったわたしがする日は決してこないだろうと、何の根拠もなく、漠然と思っていた。彼女たちに対し、自分は強者であり彼女たちは弱者であるというような、何か非常に気まずい優劣関係を少なからず意識していた。

 この三週間で、その気持ちはゆっくりだが完璧に打ち壊された。自分の外側から暴力的な方法で命がもぎ取られる状態が、初めて具体的に想像できたのだ。なぜ社会がそのような状態に陥ってしまったのかを考える余裕はなく、ただ、どうすれば最悪の事態を避けれるのかを考える数日を過ごした。手だてを知るために、自分は何を信じるのかを一から洗い出し、大きな力にコントロールされそうな意志を立て直し、本当の考えを隠さなくてはならない圧力に耐えた。翻弄され、悩み、敵なのか見方なのかと探りながら人と話し、次の行動を瞬時かつ直感で判断しなくてはならなかった。じっくり考える時間はなかった。そして、二週間半経ってようやくひとつの指針に辿り着いた。

 その指針とは、なによりも命を優先するというものだった。「命」と言うとき、わたしはまず自然と我が息子のことを思った。いままでずっと、わたしのいるところが彼の居場所になり、わたしの食べるものが彼の体をつくってきた。責任はすべて親である人間の上にある。それはときに致命的な重荷だが、同時に、常にわたしの生きるという活動を根本から支えてもきた。 

 不測の事態が起き、緊急の判断を要するときでも人は、その一瞬前までの生活を捨てて行動することを躊躇する。目に見えない放射能(=存在しないかもしれない悪)を怖れて、子供にマスクをさせたり、外遊びを禁止したり、雨の日に学校を休ませて自宅待機したり、ひいては遠いところへ避難したりする必要が本当にあるのだろうか。わたしの心は「ある」と言い、世間は「ない」と言う。わたしが社会を信じないとき、そこには制裁が待っている。「女はすぐに大騒ぎする」「経済を回していくことこそが重要なのに、それを放棄して逃げるのはバカだ」「早く学校に来れるといいね」「発表会の振り付けはちゃんと覚えてくださいね」。時間がなく、どうしようもなくどっぷりと渦中に飲み込まれているとき、これらの言葉がわたしを責め、自己嫌悪に陥らせる。彼らの言っていることは、「以前」の生活においては正論だからだ。さらにそこに、「女」に貼られたレッテルからくるわたし自身の思い込みや劣等感が加担する。女であるわたしは感情的なのかもしれないし、論理的でもないかもしれない。神経質さやこだわりの強さから子供をコントロールし、大切な時間を奪っているのかもしれない。あるいは自己中心的なのかもしれないし、衝動的なのかもしれない。  しかしわたしたちはいま、重大なパラダイムシフトが起きたということに気付かなくてはならない。東京在住のわたしにとっては、原発の事故こそがそれである。いままでの価値観が通用しない世界がすでに到来し、まるで手のひらを返すように、一瞬でわたしを取り巻く世界の価値観を変え、いまも持続している。

 このパラダイムシフトの経験は、写真集にうつるルワンダの女性たちに、わたしをより近く引き寄せた。すでにわたしの目線は、彼女たちのそれとほぼ同じ高さに位置しているように思える。彼女たちに何をしてあげられるのかという少々傲慢な、けれども実際はそれが妥当だと思えた感情が変わり、いまは彼女たちのまなざしが何処を見つめているのか、その行方を教えて欲しいと思う。わたしのしていることが正しいのかを、彼女たちが知っているような気がしながら、もう一度ページをめくる。

 なぜ、彼女たちが自分の子供を産み、育てることにしたのか。その選択のもとには強い風当たりがあり、大きな差別があるのにもかかわらず。彼女たちの多くは、生まれてきた子を愛していると言うが、少なくない幾人かは愛せないと言う。愛しても、愛さなくても、子供を引き受けているという事実に変わりはなく、わたしにはそのことがより重要に思える。なぜなら、自分の気持ちをどう語るかということはあくまで言語の問題であり、どのような表現を選んだとしても、自分の中に渦巻く大きな葛藤を完全に表現することは所詮できないからだ。自分の過酷な過去を乗り超えるために子供と暮らす、あるいは直視できないために子供と暮らせない、そのいずれであっても、新しい命を引き受けるというその決断こそ、誰かに発明された愛という言葉が意味するものを遥かに凌ぐ何かを物語ってはいないだろうか。彼女たちは、起きてしまったことの過ちを自分で引き受けながら、それを子供たちには引き継がないことを強く望んでいる。子供と暮らさないという選択肢でさえ、そこに起因した行動にみえる。彼女たち一人一人の生き方がいま、わたしの新しい問題を自分がこれからどう引き受けるのかを考えるときの支えになっていることはまぎれもない事実だ。女性、母、社会的弱者--立場に共感できさえすれば、括り方は何でもいい―こそがぶつかる困難や示せる生き方があり、それを知り、やり遂げるためにわたしは存在すると思いたい。事実、この世の中には変えなければいけないことがあり、自分のしなくてはならないことがある。 ruwanda_pop.jpg



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 ぼうっとして、テレビを見ていた。さまざまな分野で日本が世界で何番目かを面白おかしく伝えるヴァラエティ番組で、その時は世界で離婚率が一番高いというベルギーを取材していた。ベルギーでは離婚率が70パーセントで、本屋には複雑な家庭で育つ子供のために、いろんな人間関係を学ぶ絵本のコーナーがあるという。10分ほどの現地の映像の後にスタジオにカメラが戻り、ひな壇に並ぶ男性タレントのひとりが言った。「日本はまだ幸せだよね、離婚が少なくて」。
 無邪気にこう公言する若い日本男性の心性と、ルワンダで大量虐殺を実行し、女性をレイプした男たちはひとつながりのものだと言ったら、非難されるだろうか。
 ベルギーで離婚率が高いのは、言うまでもなく、離婚しても経済的にも精神的にも独立して生活していけるだけの社会的地位と、離婚に対して差別も偏見も不利益も蒙らない環境を女性が獲得したからだ。シングルマザーの貧困率が高く、仕事がなく、家庭内暴力を受けていても精神的に依存していたら、離婚することもできない。  ジョナサン・トーゴヴニクが写しているのは、ベルギーとは正反対の社会に住む女性たちである。彼女たちはジェノサイドの際にレイプされ、エイズをうつされ、妊娠し、敵の子供を産んだ。父権制が極めて強固なルワンダでは、子供は父親の一族とみなされる。被害者である女性と子供は家族や地域社会から拒絶され、偏見に晒され、困窮と病気の渕に沈んでいくことになるのである。
 「民兵たちは、これから私たちを暴行すると言いました。ただし『結婚する』という言葉を使って。おまえたちの息が絶えるまで結婚してやる、と」という言葉を他人事のように聞ける社会に私たちは生きていない。トーゴニクが写す彼女たちの威厳あるまなざしから私たちは一人として逃れられないのである。
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山口晃:Singa-planet
1,000円+税 | 191 × 257 mm | 61頁 | 並製本
アートディレクション : 近藤一弥
発行 : 国際交流基金

Singa-planet
Works by Akira Yamaguchi


1,000JPY | 191 × 257 mm | 61page | softcover
Art Director : Kazuya Kondo
Issued by Japan Foundation


ISBN : 978-4-903545-72-1
Published in May 2011



About Book 

現代美術を代表する作家・山口晃。
シンガポールをテーマにした新作!


シンガポールの建築は、重力を無視するかのように空へと伸び、
庶民を地べたから高層階へと放り上げます。
かつて地面で隣り合っていた者が、
同じ距離でありながら中空に隔てられる現在。
気楽な旅行者のちょっと不躾な視線は、
そこにどのようなゲートウェイを見出すのでしょうか......。
ーーー山口晃



広い共感を得る山口晃の作品は、「洛中洛外図」などの日本の伝統的な絵画のスタイルの中に、古今東西の事象や風俗、現代の日常生活を同一画面上に取り込み、時間と空間を自由自在に混在させた、 機知に富んだ画風を特徴とする。本書は、シンガポールのジャパン・クリエイティブ・センターでの個展に際してつくられたカタログで、シンガポールをテーマにした新作と、2000年代の代表的な作品の二部構成。

新作のドローイングのシリーズは現地で制作され、HDB(公団住宅)、チキン・ライス、ビジネスマン、おまる等、庶民生活に着想を得ており、それらの事象を見つめる作家の想像力豊かな思索と批評的な視線が交錯する。
第二部では「百貨店圖 日本橋 新三越本店」などの作品群で、第一部の背景ともなる近年の作家の足どりを紹介する。卓越した描写力と遊び心あふれるポップな表現ーーシンガポールでも"山口ワールド"、益々健在!

テキスト:
五十嵐太郎「素晴らしき哉、山口晃の建築世界」
高野清見「越境するまなざし、絵画のたくらみ」

Book Previews

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Artist Information

山口 晃 | Akira Yamaguchi

1969年 東京生まれ、群馬県桐生市育ち。
1994年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1996年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻(油画)修士課程修了。
合戦図、時空の混在、更には画面を埋め尽くすように描き込まれた街の鳥瞰図等のモチーフを使い、観客を飽きさせないユーモアとシニカルさを織り交ぜた作風に代表される。

1969 Born in Tokyo, Japan and grown up in Kiryu City, Gumna、Lives and works in Tokyo, Japan.
1996 Tokyo National University of Fine Arts and Music, MA in oil painting
1994 Tokyo National University of Fine Arts and Music, BA in oil painting


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SMOKEY MOUNTAIN
名越啓介 写真集 
4,000円+税 | 258 × 300 mm | 132頁 | 上製本
アートディレクション : 町口景

SMOKEY MOUNTAIN
Photographs by Keisuke Nagoshi


4,000JPY | 258 × 300 mm | 132 page | hardcover
Art Director : Hikari Machiguchi


ISBN : 978-4-903545-70-7
Published in April 2011








About Book 

ドキュメンタリーの新たな旗手・名越啓介が10年をかけて、
フィリピン・マニラのスモーキーマウンテン(スラム街)を撮影した写真集。


光と闇、生と死が激しく交錯するなかに、人の絆や祈りが浮き彫りになる。
ドキュメンタリーのスタイルを内側から揺さぶり、切実なイメージへの回路をひらく新潮流。

「この『SMOKEY MOUNTAIN』は名越啓介という1人の若い写真家がマニラのスモーキーマウンテンに一目惚れし、10年かかって口説き落とした、とても私的なスモーキーマウンテンへのラブストーリーでもあると同時に、深い闇のベールに覆われたフィリピン社会の光と影を収めた貴重なルポルタージュでもある。」
林文浩(DUNE/THE LAST GALLERY)

Keisuke Nagoshi's "SMOKEY MOUNTAIN" is the result of 10 years of photographing the life around an enormous garbage dump in Manila which is inhabited by thousands of people. Over his many trips to Smokey Mountain, Nagoshi became close to the people living there, and this human connection comes through strongly in his work. He's able to document the reality of this place without simply trying to shock the viewer. At times, Nagoshi's photographs approach an almost classical black and white snapshot aesthetic, while at other times he uses a simpler style to show an event, or someone's face. Life in Smokey Mountain is harsh, but Nagoshi is able to offer a carefully considered perspective on the way that people live and die in these conditions.

Includes English translations of texts by editor Fumihiro Hayashi and the photographer.

Book Previews

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Artist Information

名越啓介 | Keisuke Nagoshi

1977年奈良県生まれ。東京在住。1996年より世界各地にてスクウォッター(不法占拠者)との共同生活による撮影を開始。著書に、写真集『EXCUSE ME』(トキメキパブリッシング刊、2006年)、『CHICANO』(東京キララ社刊、2008年)がある。

Born in 1977 in Nara, JAPAN.
When he was nineteen years old, he went to the United States on his own. Traveling many places,from L.A., Seattle,San Francisco, Canada, and to Mexico, he lived together with squatters from the North American continent and portrayed their way of life on his film. After that,this peculiar trip became his lifework. In 2004,he visited the Philippines for the first time and was attracted to Scavenger's yet boundless cheerfulness. Thereafter, he began to take photographs of "heresy" from Asia. In the spirit of his trips with American squatters, he visited four Asian countries.


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